フォト
無料ブログはココログ

2011年3月 6日 (日)

「告白」~夕暮れの電話~

Yuugure

転校して1ヶ月、クラスにも多少馴染み話をする友達も出来た。

元々人見知りをする性格の私は人と打ち解けるまでに時間がかかってしまうが、
クラスには優しく声をかけてくれる子もいて寂しくはなかった。

家に帰ると待っているのは、真新しい家具に見慣れない高層マンションからの眺め、
そして母の遺影。

さすがにこの頃になると母の写真を見て泣くことも無くなったが、やはり悲しい気持は
変わらなかった。

夜、父の帰りが遅いとマンションのベランダから父の帰ってくる方向を眺め父を待つ。
知らない土地、真新しい家に一人でいるのはとても心細かったから。。

頼れるのは父一人。

父が早く帰ってきた時に一緒に出掛ける外食、休日の買い物など、私は楽しみに
するようになっていた。

父子家庭で不憫だと言う人も中にはいたが、私達はそれなりに楽しく暮らしていた。

父も私の事を気にかけてくれ、映画に連れて行ってくれたり洋服を買いに連れて行って

くれたりと、何かと私を楽しませる事に時間を費やしてくれた。

でも、そんな父との暮らしは長くは続かなかった。

引越ししてから半年ほどが経ち、学校や新しい家にも慣れてきたころ一本の電話が
かかってきた。

夕方、日も暮れかけた頃に鳴った電話の主はこう言った。

「・・・・もしもし・・お父さん、居ますか?」

低く沈んだ声。電話の主は女性だった。

低くかすれ気味の声は聞きとりにくかったが、その声には聞き覚えがある・・

「いえ、まだ帰ってきていません。」

そして、私は答え相手の名前を聞いた。

相手の女は少し間を置いて、木下です。と名乗った。

あぁ、やっぱり。あの女だ。

気がついてはいたが、それが確信に変わった時、体が硬直した。

私は女が誰か気がつかない振りをして電話を切った。

どうして?何故あの女から電話があるの?何故、今さら、何故・・?

私は驚きで混乱した。

どうしよう!

お父さんに言った方が良いの?

私は悩んだ。このまま無視したって良いじゃない。

あんなに酷い女の事なんて、知らない!

しかし、その日の晩、私は父に電話があった事を伝えた。

何故、電話の事を父に伝えたのか?

それは、今、私が伝えなくともいずれは父の耳に入るだろと思ったから。
あるいは、逆らえない何かを感じ取ったからだろう。

そして、その一本の電話を機に私と父の運命は変わっていったのだ。

2011年2月 4日 (金)

私の大切な友達

Kouen

先日、4年ぶりある友達と会った。

彼女は私と同じ年。

でも、学校とか地元の友達じゃなくて結婚してから知り合った友達。

長男が産れる前からの付き合いだから、かれこれ18年超えのおつきあい。

知り合ったきっかけは、「育児サークル」

その頃の私は10代で出産し、まわりに知り合いも居ないし友達も居ない。

地元の友達は、みんな大学や就職で世界が違うし疎遠になっていた

そんな私の楽しみは同じ年代・同じ年頃の子供を持つママ達と交流する育児サークル

当時はパソコンも携帯も無くて、サークルの募集は育児雑誌の投稿欄。

3つのサークルに参加していたうちの一つで彼女と知り合った。

初めは家が近い(同県・同市)者同士の回覧ノートで一緒になって意気投合

次に集会で会って仲良くなって長電話をする仲に。

そして直ぐにお互いの家を行き来して遊ぶようになった。

彼女はとても明るくておおらかな性格。

でも、子育ては真剣で子供たちを厳しく躾ていた。

彼女も私も、10代で子供を産んで

「若い親だからってバカにされたくないし、若い親の子供だからって出来が悪いと思われないように」

とまわりから言われないようにと、ただただ頑張って子育てをしてきた。

子育てに不安や迷いがある時は、真っ先に彼女に相談。

屈託のない彼女のアドバイスは私を安心させてくれた。

子供が小さい頃は頻繁に会っていた私たちも、子供たちが小学校に上がり、お互いに仕事を

持つようになると会う頻度も激減。

会わない時には数ヵ月-数年音沙汰が無い事もあった。

でも、何かあると連絡を取り合っていたし、お互いが必要と思った時には会わなかった期間の

長さなんて関係なく自然と会い語らう。

Image

大人になってから出来る「友達」って、仕事場の同僚だったり、ママ友だったり、学校関係だったり。

もちろん、仲良くはするし一緒にご飯を食べたり買い物したりと楽しいけれど

付き合いの要となる物(例えば子供の卒業とか)が終わるとその付き合いも自然と消滅してしまったり。

当たり前の事だけれど毎回なんか寂しいなと思ってしまうdown

でも、彼女は「私の友達」

子供が大きくなっても、生活環境が変わっても、引っ越しをしても、変わらずに付き合ってくれる。

親としてや仕事関係の立場がきっかけの友達じゃなくて、私が自分自身ありのままで

友達になった彼女だから、こんなに長く付き合っているのかな?と思う。

この先、何年・何十年経ってもこのまま友達で居るんだろうな~って考えるとチョッと嬉しくてニヤけますsmile

そんな彼女と私、「ババ友」でもあるんですよwink

まさかの奇跡shine同時期「初孫誕生」shine

詳しくはまた次の機会にpaper

2011年1月31日 (月)

「告白」~父の誤算と後悔~

「大雪の夜の出来事」

Yuki

引越し先は東京近郊の地方都市。

駅に程近いマンションに決まった。
今まで住んでいた、周りに畑がある閑な街並みとは対象的にビルやマンションが建ち並ぶ都会的な街。

私は6年間住んでいる地元の中学に進学していた。
学期途中の為、近所に住む母方の叔母の家で一学年が終わるまでの数ヶ月間お世話になることになった。

叔母の家は小さな部品工場を営んでいる。
工場の2階が住居スペースとなっていた。
早朝から夕方までひっきりなしに聞こえる金属音と油のにおい。
どこか懐かしく居心地が良い。

叔母の家には息子が二人、私より6~8歳年上息子たちはとても優しく
私を可愛がってくれた。

父は物件が決まると直ぐに引越しの準備をし、先にマンションへと移り住んだ。

マンションの部屋の中にある物は何もかもが新しかった。

食器棚、テーブル、ソファ、ベッドの家具類に洗濯機、冷蔵庫、電子レンジ。

何かもかもが新しくて、知らない人の家のよう。

母が使っていたものなど、何一つ残ってはいなかった。

父が引越しを急いだのには早く女と暮らしたかったのもあるが、母の自殺事件で

近所から白い目で見られていた事も原因のひとつだったと思う。

仕方ない、近所には母が仲良くしていた家も多かったのだから。

それだけの事が起きたのだから。



私は引越しなんかしたくなかった。

小学校1年生の時にこの家に越してきて、仲の良い友達がたくさんいたし
当時、親友と呼べる子は私の引越しに泣いて悲しんでくれた。

でも、いくら私が反対をしても親の意見には逆らえない。

嫌でも父の居るマンションへと向かわなければいけなかった。



母と一緒に暮らした家を売却し、引き渡しまで後2週間と迫った頃の事。

その日は関東地方に季節外れの大雪が降った寒い日だった。

夜遅くに帰ってきた父は暗く、沈んだ顔をしていた。

何があったのだろう?子供ながらにもただごとではないと感じた。

帰ってきた父は上着も脱がずに「話がある」と私を呼び自分の前の席に着かせ、

こう話始めた。

「お父さん、律子とは別れた。
だから、引越先のマンションにはお父さんと二人だけで住む事になるからね。」



・・何を言っているの?

私は急な父の話に困惑した。

そして、感情は次第に怒りへと変わった。

「何で?何で今頃になって別れるの!?

どうせ別れるならママが生きている時に別れればいいじゃない!

そんなの、ママが可哀想過ぎるよ。

何の為に死んだのか分からないじゃない・・」

私は身勝手な父と女に信じられないほどの怒りを抱いた。

そんな二人の為に母が命を落とした事に、悔しくて、涙が溢れて止まらなかった。

父も肩を落とし涙ぐみ、母が亡くなってはじめて心から後悔と謝罪の言葉を口にした。

今さら、いくら父が後悔し悔いても亡くなってしまった母はもう帰らない。

父は一生取り返しのつかない過ちを犯してしまったのだ。



今年春彼岸の墓参りの時に、この一件の事を父と話した。

あの時何故別れたのか?

大き過ぎる犠牲を払ってまでも一緒に居る事を望んだのに。

すると父は、

「律子と一緒に暮らし始める前に久子の墓参りをしようと話していたんだ。
でも、彼女は逃げた。
事の大きさに耐えられなかった。
そして、お父さんの前からも消えたんだ。」

「そう、逃げるなんて卑怯ね。
あの人は未だにお母さんの事、一言も謝っていない。
全てはお母さんが悪いと。
千葉のおばあちゃんも謝罪を聞かないまま亡くなってしまった。
無念だったと思うよ。」

私は父にそう険しい表情で言った。

女に対する怒りと悔しい思いは28年経った今も変わらない。

ただ、父は70歳近くになり老いた父を責め立てるのは可哀想な気がしてしまう。

そして、可哀想な理由の一番は今父があの時に律子を選らんでしまった事を後悔しているからだ。

父の後悔は、二度もあの女を選らんでしまった事。

そして自ら選らんだ結果、今、父は寂しい老後を送っている。

Image

「告白」を読んで頂いている方へshine

ぽんぽこです。

いつも読んで頂きまして有難うございます。

つたない文章で読みにくい箇所も多々あったことと思います

この回で区切りが良いので少しお話させて頂きます。

これまでのお話は、母が亡くなって父と二人の生活が始まるまでを書きました。

この先の出来事は、父との生活「その後の出来事」~私が家を出るまで。

そして、家を出てから結婚し家族が出来る~現在に至るまでの家族の話等を

書いていきたいたいと思います。

「~家を出るまで」は暗い内容があるかと思いますが、それ以降は楽しい話もありますconfident

不定期更新ですが、頑張って書いていきますので気が向いてら見ていただけると嬉しいです

2011年1月28日 (金)

「告白」~葬儀の後~

Kage

母の葬儀、納骨が終わると祖母は帰り父と二人の生活が始まった。

父の帰りは早ければ7時頃、遅い時には12時を過ぎる事もあった。

母が美容院をしていた為カギっ子だった私は、小さな頃から家に一人で
居るのには慣れてはいたが、さすがに母を亡くした後は心細く寂しかった。

夜、布団に入ると母の事を思い出し泣いてしまうと、隣で寝ていた父は
気の毒そうな顔をしながらも

「ママはもう死んでしまったのだから、もう帰ってこないのだから、と、
私に泣かないようにと言うのだった。」

母が亡くなった後、私は自分の布団を父と母の寝室に持ちこんで父の隣に寝ていたが
しばらくすると自分部屋に戻り、一人で寝るようになった。

夜、部屋で布団に入っていると父の話声が聞こえてくる。

声は小さいが声色は高く、どことなく楽しそうだ。

・・女と話しているの!?

母の事があった後も父は平然と女と繋がっていた。

信じられない・・・

父へ怒りと不信感を抱きながらも、まだ子供の私にはどうする事もできなかった。

ある日、父は私に出掛けるから支度をしなさいと言った。
母が亡くなってから出掛けた事などなかったから、私は素直に喜んだ。

どこに行くの?
出掛けるのは久しぶりだね!
私は歩くのが早い父の後を見失うまいと、一生懸命に付いて行った。

電車を乗り継ぎ着いた先は新宿。

雑踏の中を歩いて行くと、父の視線の先には女の人が立っていた。

私は誰だろう?と一瞬考えたが直ぐに分かった。

あの女だ・・父の様子を見れば直ぐにわかる。

深夜の電話と同じ声色がたかった。

私は軽く会釈をすると緊張で体を固くした。

この人と前に会った事がある!
私は女の顔見て思い出した。あの時のお姉さんだ・・・

それは、私が小学校3、4年の時、父に遊園地に連れて行ってもらった時一緒にいた
女の人だった。

父は私に会社で一緒に働いているお姉さんだよ。

と説明した。その時の私は特別不思議にも思わずに楽しく遊んでいたと思う。

あの頃はまさかこんな事が起きるなんて夢にも思わなかったのだから。

父は私と女を連れて、鉄板焼の店へと向かった。

そこはオフィスビルの中にある老舗の高級料理店。

父と女は楽しそうに話をし、酒を飲んでいた。

その日を境に、週末になると父は私を連れて女のアパートへ通うようになった。
連休の時はそのまま泊まり翌日家に帰る。私は週末が大嫌いだった。

週末になり、私が父と出掛けるのを嫌がると父は決まって
おだてたり、なだめたり、時にはキツイ口調で一緒に行く事を強要した。

女は私に対しては特別意地悪くもなかったが優しくもなかった。

父の付属のような感覚だったのだろう。
はっきりと言える事は二人とも一切悪びれる様子はなかったという事。

二人にとって母の死はどのような事だったのだろうか。

未だ私は女から不倫行為・母の死についての謝罪を受けていない。

母が死んで半年も経たないうちに、父は女と一緒に暮らす新居を探し始めた。

母と暮らしたマイホームを売却して。

それから一年後、私たちは引越す事になる。

                                             続く

2011年1月23日 (日)

「告白」~実の両親~

Onnanoko

小さい頃、何度となく本当のお父さんとお母さんって
どうゆう人だろうと想像していた。

それは寂しいからとか会いたいからとかと言うのとは違って、
ただの好奇心からだ。

漫画やドラマのように貧しい家の娘が、本当は病院で
取り違えられた大富豪のお嬢様だったなんて言うチープなストーリーを
想像してみたりもした。

でも、それも子供のごっこ遊びみたいな物で心から望んでいた
訳ではなかったし、母から聞かされていた焼き鳥屋のじいさんの
話は私を心から怯えさせていたので、返って会ってはいけない気持さえしていた。

一生逢わないかもしれない実の両親と、大人になった私は再会する事になる。

母親とは必然的に、父親とは衝撃的に。

その出会いは私の人生を大きく変える事になる。

【実の両親】

私の実の両親は、私が生まれて間もなく離婚した。

理由は生活苦だったらしい。

若くして妊娠してしまった母、当時17歳という年齢に
当然大反対した両親の元を出て、交際中の彼と駆け落ち。

彼(実の父)は母より6歳年上。

当時、調理師の見習い中だった。

自分達の事を誰も知らない土地へ移り住んだ二人は
小さな弁当屋を始めた。

弁当を作り売り歩く毎日、弁当は思うように売れずに赤字が続いた。

母のお腹も次第に大きくなり、思うように働けなくなると生活は一気に困窮した。

貯金は使い果たし、今日食べる物にも困るように。

当然、出産費用も無く、二人の間では生活苦と先行きの不安から
言い争いが起こるようになった。

そんな生活が続き、共に疲れ果てた二人は母の出産を目前に実家に戻る事になる。
「貧しさ」は二人の心に歪みを作り、離れさせ。

そして、二人は実家に戻って間もなく離婚。

実質的な夫婦生活なんてほんの数ヵ月。
「ママゴトみたいなものだった」と、後に実母は言っている。

実家へ戻り、私を出産した母。

子供は産んだものの、17歳という若さで父親のいない子供を一人で育てる事なんて
不可能だった。

当時は未成年の妊娠・出産に世間の風当たりも強かった事だろう。

母の実家は、生まれた私を施設へ預ける事を考えた。
母親が育てられない以上、仕方がない選択だと思う。

母親の手から離れた私は1年間弱、乳児院施設へと預けられる事となった。

そして、その後私は養母と出会い、養女として迎えられる事になる。

Hana

【縁あって】

実母の実家と、養母が経営する美容院は同じ町にある。

美容院のお客さんだった方の娘さんと実母が友人同士で
その縁あって、お客さんが私を連れて美容院に来たのが養父母と出会うきっかけだった。

当時、恵ちゃんを亡くしたばかりの母は子供の生まれ変わりとばかりに

私を可愛がってくれた。

そして、養父も同様に可愛がってくれ公園等にも連れて行って
くれたという。

度々会ううちに、養母と養父は私の境遇を哀れに思い養女として

迎えてくれることになり、養父母の娘としてその後の人生を歩んでいく事になる。

                                             

                                             続く

2011年1月16日 (日)

「告白」~私の一番古い記憶~

Oyako

小さい頃、言う事を聞かなかったり何か悪い事をすると
母は決まって「あの話」をする。

「ママはね、ゆきちゃんの本当のお母さんじゃないの。

ゆきちゃんはね、養女っていって貰われてきた子供なの。

ゆきちゃんが悪い事をすると、貰われっ子だからって
言われちゃうんだよ。
だから、言われないようにいつも良い子でなくちゃいけないの。」

普段はこんなものでしたが、あまりにも言う事を聞かなかったり
アルコールが入っている時には

「美幸は駅前の焼き鳥屋の子供なんだ、母親は居ないけど
爺さんが居る。お前に良く似た垂れ目の爺さんがね。」

「あまり言う事を聞かないなら、その爺さんの所へ連れて行くよ!」

幼いながらも、焼き鳥屋の爺さんの所へ行く事はいけない事、
怖い事のように思えて、その話の度にとても辛く、大泣きをして
いた。

その「養女だから~」の話しは私が小学校に上がるまで続いた。

何故、母親がまだ幼く話もよく理解出来ないうちから養女の
話をして聞かせたのか?

祖母によると、それは大きくなってから聞くとショックが大きく
非行に走る恐れがあるからだそうだ。

・・・・でも、理由はそれだけではない。

母は私と恵ちゃんを重ね合わせると同時に、恵ちゃんに対して
本当の子供は恵だけよ、と言いたかったのかもしれない。

母の死後、祖母は恵ちゃんが産まれた時の話をよくするようになった。

母は臨月近くまで美容師として働いていた。

大きなお腹を庇いながら一日中の立ち仕事は辛かった事だろう。
でも、その頃父の月給は安く母も働かなければ生活が厳しかったという。

無理が祟ってしまい切迫早産となり、予定日より早く出産を迎えてしまった。

出産は初産のせいもあってか長時間となり、体力的にも弱っていた母は呼吸困難に。

酸欠の危険な状態に陥り、急遽帝王切開での出産となった。

長時間の出産で、赤ん坊も危険な状態に。
でも、奇跡的に一命は取り留め、無事出産を迎え2500g以下の低体重児で
生まれた女の子は「恵」と名付けられた。

父と母は初めて産む事ができた我が子の誕生を心から喜びあったという。

しかし、3日後事態は急変した。

保育器に入っていた恵ちゃんが急死してしまったのだ。

はっきりとした理由の分からないままの急な死に、祖母は未だに
「あれは病院側の不手際だ。」と言っている。

現在でも、新生児の突然死は起こるものの病院側の高度な医療によって
助かる命も多い。

しかし、40年近くも前の医療では新生児の突然死に充分な対応が出来なかったの
かもしれないし、もしかしたら先天的な病気を抱えて生まれてきてしまったのかもしれない。

今となっては真相は誰にも分からないが、父と母の無念な気持ちは痛いほど分かる。
子供に先立たれる事ほど、辛い事はない。

辛く悲しい母の想いは、時として感情をコントロールできない状態を引き起こしてしまったのだろうと思う。

可愛い我が子の死、助けてあげられなかったことへの懺悔、辛さを埋めるため
同じ年頃の子を迎えるが、でもやはり我が子は一人忘れられない、
養女を迎えてしまった事に対する我が子への後ろめたさ・・・

このような気持ちの流れが起こっていたのではないかと私は推測する。

・・・・叶わない夢だけど、母に会って幼い頃の話を聞いてみたい。

母の恵ちゃんや私に対する想いを。

母の気持ちを理解し、赦し、感謝する事が出来た時

初めて私は「母離れ」が出来ると思う。

                                            続く

2011年1月 8日 (土)

「告白」~絶望と決意~

Yuuhi

父は女が自殺を図ったと連絡を受け、直ぐ様女の元へ駆けつけた。

その動転ぶりは母を深く傷つけ、うろたえる父の姿を見て、怒り悲しみを

通り越し絶望を感じさせた。

女の自殺未遂は母の遺書にも書かれている。

女の元へ向かった父が家へ帰って来たのは3日後の深夜だった。

傷は浅く、病院に運ばれたが即日に帰されたという。

女がアパートに帰った後も、父は女の傍を離れず看病を続けていた。

母は父の帰りを待ち続けていたが、アルコールの効きもあって
眠ってしまっていたのだろう。

母の傍らには、深夜やに帰った父が書き残した走り書きが残されていた。

「美幸と二人で仲良く生きて下さい。」

父は母と私を捨て、女の元へ行った。



母は女との戦いに負けたのだ。

父に捨てられ、絶望の淵に立った母が選んだのは本当の死だった。

母の死は、父に裏切られた事への絶望か、狂言自殺を図った女への対抗心か、
父と女の罪を一生背負わせるための手段か。

生きる事を放棄してしまった母は私を残して一人で云ってしまった。

「美幸は国の子ですから置いて行きます。」

「寂しくはありません。あの世で恵が私を見つけてくれるはずです。
恵に会えるのを楽しみにしています。」

との書き置きを残して。

「国の子」

その言葉に、私は長い間苦しめられる事になる。



母の心の中にはいつも恵ちゃんがいた。

恵ちゃんは父と母の間に生まれた子。

母が出産の時に酸欠状態になってしまい、自然分娩を諦め帝王切開で生まれたが
生後3日で亡くなってしまった。

父と母は初めて産む事が出来た子供を亡くし、辛く悲しかったと思う。

私が引き取られのは恵ちゃんが亡くなって1年程してからだった。

生まれた時期が近い私と恵ちゃんが重なったのだろう。

養女の話はとんとん拍子に進んでいった。

私は物心着いた頃から恵ちゃんの事は知ってた。

母から話を聞かされていたからだ。

「美幸がお母さんの所に来る前に死んでしまった子供がいるのよ」、と。

幼稚園の卒業式に撮った写真に、私の手に重なるようにして小さな手が
写っていた事があった。

母はそれを「恵ちゃんも一緒に卒園したんだね」、と言っていた。

母の心にはいつも恵ちゃんが居て、私と重ね合わせていたのだ。

母にとって私は死んだ我が子の生まれ代わりだったのだろう。

親となった今の私には母の悲しみが分かる気がする。

と、同時に残酷な事だというのにも気がついてしまった。

何故、幼い私に「養女」だという事を必要以上に話して聞かせたのかを。

                                         続く

「告白」~狂言自殺~

Hand

母が真実を知った後、二人で話し合いがはじまった。

父はその時点まで女との関係は遊びとして割り切っていたのか
母との話し合いの結果、女とは別れる事で話はまとまった。

10年超えもの長い付き合いのあった女と、そう簡単に別れられるものだろうか・・?

別れないとごねられるのではないだろうか・・?

告発の電話の後、母は女の素性を調べた。

女の離婚した元旦那を訪ね、女の人柄・離婚の理由・父との関係を
聞いていた母は、父の関係を解消すると言う約束を心から信じられないでいた。

女の元旦那は寺の住職。

佐賀県にある寺の出身の女は、高校卒業後東京の寺へと嫁入りしたという。

勝気で気が強く、わがままな女は、子供を二人もうけるも旦那と上手く行かず

喧嘩の日々だったという。

「あいつは怖い女だ、あんた負けたらいけないよ。」

・・元旦那の言葉が脳裏に蘇る。

自分の感情のままに幼い子供たちを捨て、男の元へ走った女なんかに負けない。

きっと主人は私の元に帰ってくる。きっと!

しかし、・・・母の嫌な予感は的中した。

数日後、父の元へ相手の女が自殺を図ったと連絡が入った。

手首を切ったものの、幸い未遂で終わり病院で手当を受けるだけで済んだ。

女が自殺を図ったとの連絡を受け、父は血相を変え家を飛び出した。

母はそれを止めずに、行ってあげて、と、父を送り出したと言う。

母にしてみれば身を裂かれるように辛かっことだろう。

何故、父一人で行かせたのだろうか?

何故、何もいわなかったのだろうか?

父が自分の元に戻ると信じていたのか?

それとも、絶望か・・?

                                           続く

2010年12月27日 (月)

「告白」~真実を知る時~

Tel

父の裏切りを母が知ったのは一本の電話からだった。

昼間、自宅にかかってきた電話の主は父と同じ会社に勤めている同僚だと言う
女性からだった。名前は名乗っていない。

母と電話の女とはこのようなやりとりがあったと言う。

女性:「ご主人の事で奥さんにお話したい事があります。」

母:「え?どういった内容でしょうか?」

思いもかけない電話に母は戸惑った事だろう。

女性:「奥さん、ご主人今、どこの現場に行ってるかご存知ですか?」

母:「狭山の現場と伺っておりますが。」

女性:「それで、ご主人は遠い現場だから泊まり込みも頻繁にある、とでも言っているんじゃないですか?」

母:「そうですけど・・何故そんな事聞くんですか?」
    ・
    ・
    ・

女性:「奥さん、あなた、いつまで騙されてるつもりですか?」

女は呆れて言い放った。

女性:「狭山の現場はとっくに終わってますよ。
    今は都内だから泊まり込みになるような所じゃないの!
    普通に家に帰れる時間に仕事も終わっているのよ!」

母:「えっ!?そうなんですか?じゃああの人、私に嘘をついていたっていうの!?」

女性:「奥さん、ご主人が隠していたのは現場の事だけじゃないの。
    ご主人にはね、女が居るのよ!それもかなり前からね。
    奥さん、気がつかなかったの?
    しっかりしないとご主人本当に帰って来なくなっちゃうわよ!」

電話の女は、気が動転し言葉も出せない母に向かって、巻くし立てるように言ったと言う。

あの人が浮気!?それもかなり前から・・嘘・・!

女はご丁寧にも父の浮気相手がどこの誰かも教えてくれた。

その電話の女は最後まで名乗っらなかったそうだが本当に会社の人間だったのだろうか?
父と母を離婚させようと、浮気相手の差し金だったんじゃないのか?

今となっては確かめるすべもないが、私は後者だと思っている。

                                                 続く 

2010年12月23日 (木)

「告白」~祖母の後悔~

Ringo

祖母は母が亡くなる2~3ヶ月前に初めて母から父の裏切りの話を聞いたと言う。

母は泣きながら電話をかけてきたが、祖母は

「旦那の浮気ぐらい我慢しなさい。女に飽きたら帰ってくるから。

反対を押し切って一緒になった男なのだから最後まで添い遂げなさい。」

と、母に言い聞かせたと言う。

その後も母からは相談の電話があったそうだが祖母は帰ってこいとは決して

言わなかった。

母の死後、祖母は母を実家に帰さなかった事を凄く後悔していた。

そして、それ以上に父と結婚させた事を強く後悔しているようだった。

母の実家は青森で林檎問屋を営んでおり、母がまだ実家にいた当時は裕福に

暮らしていた。

一方、父の実家は染物職人の家。

体の弱かった両親と幼い兄弟のいる家は決して楽な生活ではなかったそうだ。

生活レベルの違いと、当時母に好意を寄せている良家の子息がいた為、

祖父母は父との交際を強く反対したそうだった。

「貧乏人と一緒になっても苦労するだけ。

おまけに病気持ちの家系じゃ到底交際なんて賛成できない」

母は反対されながらも、父の強いアプローチに隠れて交際を続けていたそうだ。

そして、母は夢だった美容師になる為に女学校を卒業し直ぐに東京へ出てきた。

父も後を追うように上京し、直ぐに母の元へ向かったという。

祖母は、あんなに反対したのに言う事を聞かなくて・・・お金もなくて苦労しただろうに。

あまりに連絡が無いものだから、しびれを切れして東京へ様子を見に行くと、久子は

やつれた真っ青な顔していたっけねえ。

あれは子供を堕胎した後だったのだろうね・・・

そういえば、母がお酒を飲みながらこんな話をしていた事がある。

「ママはね、何度も子供を堕した事があるの。だからね、ママが死ぬ前にパパの

お腹を殺した子供の数だけ包丁で刺してやるの。」

子供ながらも、こんな怖い母の言葉にゾッとしたのを覚えている。

父は無一文に近い状態で上京し、工事現場などの日当仕事でなんとか収入を得ていた。

その収入も半分は青森の実家へ送金していたのだから手元に残るのは僅か

だったと思う。

母も美容師の見習い期間でもちろん収入なんて微々たるものだったのだろう。

二人はいつも近所の好意にしてくれる八百屋の老夫婦の家でご飯をごちそうになったり

お風呂を頂いたりしていたそうだ。

もちろん、まったくただという訳には行かないから、お店を手伝い、家事を引き受け、

髪を整えたりしていた。

そんな貧しい時期を共に過ごして苦労したのに、まさか、裏切るなんて・・・

まさか、こんな形で娘を失うなんて・・・祖父母の後悔と悲しみは計り知れない。

Image

母の葬儀が終わると学校は直ぐに夏休みに入った。

毎年、夏休みになると千葉の祖父母宅へ1ヶ月程泊まり行く。

毎年楽しみで仕方がなかった夏休みだったけれど、その年はやはり辛いものになった。

後日、私は、母が何故死んだのか死ななくてはいけなかったのかを知る事になる。

祖母が母の残した遺書を見せてくれる事になったからだ。

母の遺書のには力無く書かれた文字が並び、読みにくい箇所も多くあった。

泣きながら書いたのだろう、所どころ文字がにじんでいた・・・

                                               続く

«「告白」~母との別れ~